天保6(1853)年頃

「鹿児島風流(ぶり)」(著者-伊東陵舎:江戸の講釈師)に
五文餅(ごんめもち)が紹介される。図あり。
両棒餅のことと思われる。別名杉山兵子。

天保6(1853)年頃
天保14(1843)年頃

「三国名勝図会」谿山郡の物産、飲食類として
五文餅が記載。邑治下市坊の名品なりとあり、谷山地域の名物であったことがわかる。

天保14(1843)年頃
明治8年(1875)年頃

「薩隅日地理纂」谷山の物産、飲食として
五文餅が記載。名前の由来は銭五文で一つ買えるから。上記「三国名勝図会」の記述と似ている。名物と紹介。

明治8年(1875)年頃
明治13(1880)年頃

磯島津邸御庭人足であった桐原辰之助(明治45年5月17日75歳で没)とその妻シナ(大正5年5月31日68歳で没)が、磯天神脇の自宅で製造販売を始めるか上記ののち、平田、中川も開店し、磯の名物となる。この間ヂャンボと呼ばれるようになるか

明治13(1880)年頃
明治24(1891)年

平田翠屏翁が桐原辰之助に乞われて「家珍亭記並能因法師故事の圖」を著す
(昭和6年発行の磯の名所𦾔蹟に転載されている)
・餅の名物は多いが鹿児島での名物は、谷山の五ン目餅
・五ン目餅の由来は五文の値段だったから
・別名田楽餅、豆腐の田楽のように味噌と黒砂糖をぬるため
・田楽餅は、串に刺した様子が田楽法師に似ているからとも
・又の名、ヂャンボグシの記載(※ぢゃんぼの初見か)
・両(ヂャン)は唐音、ボは棒
・また士が大小二本指すことを ぢゃんぼ指しといった
・別名 杉山兵児 と記載。店の前で杉の葉の上に載せて出したからと、兵児は武士で、両刀を指した様子に似ていたから
・平田翠屏翁は桐原辰之助のことを褒めている

明治24(1891)年
明治25(1892)年

磯天神に家族で参詣した児玉宗之丞、茶屋で五文餅を食べている記載あり(「児玉宗之丞日記下」。9時から4時まで磯でゆっくり過ごしている模様。5月29日のこと。

明治25(1892)年
大正4(1915)年

「鹿児島自慢」に軽羹に次ぐ鹿児島銘菓として「ヂャンボ」が記載。
・一寸径ホドノ焙り餅 砂糖味噌をまんべんなく塗り付けたもの 
・二本の竹串を縦に刺し立てたのが名前の由来
・ナンコで二本が「ヂャン」だから「二本棒」は「ヂャンボ―」で、棒がさほど長くないから「ヂャンボ」

大正4(1915)年
大正11(1922)年

「鹿児島案内記」に名物「両棒餅(じゃんぼ)」が紹介。
・二本の串を餅に刺して焼いて味噌砂糖をつけたもの
磯と唐湊が本場と記載。唐湊はその頃温泉地か。

大正11(1922)年
昭和6(1931)年

「磯の名所𦾔蹟」に「名物両棒餅(りゃんぼうもち)」と記載。明治13年頃に桐原屋開業、その後平田、中川が開店した経緯も記載。明治24年に平田翠屏翁が桐原辰之助に乞われて「家珍亭記並能因法師故事の圖」を著したものを転載。

昭和6(1931)年
昭和9(1934)年

「三州」に「ヂャンボ」についての文章掲載。鹿児島出身者の思い出。(明治時代か) 最近の地図に磯の名物で「両棒串」とあったが「両棒餅」がよいのではと記載。読み方はヂャンボではと推測している。 鹿児島ではニのことをヂャンという。中国語の両個(リャンコ)からではと推測。谷山の名物の五枚餅は「ヂャンボ」と同じもので「ゴンメモチ」と指摘。ヂャンボは2厘 ゴンメモチは5厘(寛永通宝5文)ゴンメモチはヂャンボより大きいから高かった。

昭和9(1934)年
昭和10(1935)年

「鹿児島案内」(リーフレット)に磯濱の名物として紹介。茶屋が數軒両側にある様子が記載。「薩摩名物両棒餅(ジャンボ)を賞味するのも亦旅の一興であらう」と記載

昭和10(1935)年
昭和15(1940)年

皇紀二千六百年「鹿児島案内」(リーフレット、上記と発行者別だが内容酷似)に磯濱の名物として紹介。茶屋が數軒両側にある様子が記載。「薩摩名物両棒餅を賞味するのも亦旅の一興であらう」と記載

昭和15(1940)年
昭和28(1953)年

「鹿児島風物誌」に谷山の様子で慈眼寺前の茶屋の名物として一口蛸と五文餅が紹介。「五文餅は双棒(ジャンボ)ともいい、団子に似て串が二本指し込んであり、磯の島津家別邸附近並に温泉所在の唐湊はこの双棒で名を知られている」と記載。

昭和28(1953)年

【参考谷山関係の記載】
・谷山市誌以降、「じやんぼの元祖は谷山」と記載が現れるか。
・昔五文餅と呼ばれた
・じやんぼを初めてうって売り出したのは「じやんぼ屋呉服店」の古川
・古川は島津家から「吉野家」の屋号ももらっていた・「吉野家」は吉野牧に店を出しじやんぼを売った(吉野の馬追の際にじやんぼを造って運搬した)
・南洲翁も古川のじゃんぼを食べた
・谷山隆信が懐良親王を慰めるために差し上げとっさに「両棒餅」と答えたという説は昭和60年以降に、木原三郎先生の著述にみられる。

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