五文餠がぢゃんぼ餅に名を変える明治期

 
江戸後期に編纂された「三國名勝図会」等を参考にして編纂された地誌「薩隅日地理編考」【明治7~8(1874~1875)年頃成立か】にも「十四之巻 薩摩國 谷山 物産 飲食 鹽、五文餅 銭五文ヲ以テ一コ易故ニ此名アリ 此地市坊ノ名品ナリ」とあり、谷山の名物であり、銭五文で売られていたのがその由来だ、という記述は「三國名勝図会」に類似しつつも値段にまで及んでいる点が異なる。

その次に「五文餠」が史料に登場するのは、尚古集成館蔵の「鶴之間並御小座御建替一巻」である。これは明治17(1885)年の島津家磯別邸の改修工事の記録であり、「尚古集成館紀要」第1号 (1987年、田村省三著)に内容が紹介されている。この中で、建替え期間中に職工に対しての慰労、硯水(間食のこと)に関する記事が日記から紹介されており、ここに五文餅が多く登場する。

「七月十九日 晴

仝総職工共へ為御硯水五文餅千三百被成下候事」

「九月廿四日 晴

 本日は御硯水として、五文餅職工総人数へ被成下、大工其外定式方人数迠八十弐人也」

「九月廿七日 晴

本日、職工惣人数ハ勿論、定式営繕並御庭方人足まで九拾四人へ、五文餅五ツツゝ為硯水、 於寿満殿(忠義公母)より第十二時休ミ之節給候事」

「十月十日 陰 小雨

 和姫様三旬二相當リ候ニ付(九月十一日に忠義の九女和姫が亡くなってから三十日)、惣職工五郎右衛門初三人へも御菓子被成下、惣職工共江ハ五文餅五ツツゝ被成下候事」

これまで地域としては谷山のことが記載された史料のみに登場していた「五文餠」が、磯地区に関する史料でも確認される初見といえるだろう。明治維新によって、現在の黎明館等にあった鹿児島城から旧藩主らが別邸である仙巌園こと磯別邸を本邸とするべく、改修工事に入った際の職工等に振る舞われた食品のなかに大量の五文餠が登場する。それも何度も振る舞われているということは、職工等にも評判が良かったからであろう。また振る舞いが島津家のご当主の家族から行われていることから、島津家内でも食されていたのではと推測する。

明治17年頃に「五文餠」が販売されているのは谷山が確実だが、振る舞われた五文餠が大量であることや短期間に複数回ふるまわれていることから推測すると、この頃には「五文餠」も磯地区において製造されている可能性が浮上してくる。

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