谷山における「ぢゃんぼ餅」こと「じゃんぼ餠」

 
冒頭で紹介した五文餅の記録以来、谷山において目立った史料は確認されない。再び「五文餠」や「ぢゃんぼ餅」が記録されるようになるのは、谷山市が鹿児島市に合併される直前、谷山市誌においてである。そこには「じゃんぼは谷山が元祖」が強調されている。その谷山市誌(谷山市誌 昭和42(1967年)谷山市誌編纂委員会/編)を見てみよう。

「第四編 産業経済史

谷山名物といえば、じゃんぼ屋の「じやんぼ」も挙げなければならぬ。じゃんぼは昔五文餅とも呼ばれたば、じゃんぼを初めてつうって売り出したのは今の「じゃんぼ屋呉服店」の古川であった。古川屋は島津家から「吉野家」の屋号もいただいて、吉野丘の馬調練場に店を出し、ここでじゃんぼを売った。また南洲翁は谷山の山や海に猟をされるときには、いつも古川のじゃんぼを風味されたと伝えられている。今では鹿児島の磯のじゃんぼを思い出すが、古川のじゃんぼこそ元祖である。谷山では現在慈眼寺にじゃんぼ店があって、慈眼寺名物となっている。」

これらの根拠となる史料は添えられていないが、このような逸話が谷山地区に伝わっていたことが理解できる。同じく谷山市誌には、「明治時代における松崎の商家地図」があり、筆者(黒木)の幼児明治三十年頃の記憶に基づき、さらにこれを古老にも聞き正してようやくまとめあげたもの、との断り書きがあるがその中には

「古川幸太郎 米穀、みそ、正油 横町じゃんぼや」

「古川深蔵 呉服太物 角んじゃんぼや横町通り、松崎本通りの角 (現在の明石屋谷山店付近)」

の二軒が挙げられており、すでに明治30年ごろにじゃんぼという呼称が定着しているようにも読める。

昭和60年代になるとじゃんぼの始まりは、谷山隆信が懐良親王に差し上げたのが始まりという説が見られるようになる。これまでの文献等には記述の無い内容であり、また西郷さんも谷山のじゃんぼ餅を食べた、という説も浮上してくる

「谷山史談創刊号」【昭和60(1985)年 谷山史談会発行 木原三郎著】によると、

「ある日、隆信は宮の心を慰めようと、小餅を作り、これに味噌と黒糖の煮つめたものをかけ、食べ易いように小さい竹の棒を二本さして差し上げた。宮は美味しく食べていたがその名を下問された。隆信は即答に迷ったが、二本棒が差してあることから「両棒」(じゃんぼ)と申し上げ以来「両棒」が有名となり、谷山が両棒のはじまりとなったと伝えられる。」

 「谷山の本通りに「じゃんぼ屋」という呉服店があったが、幕末吉野の馬追いに藩庁の命で、じゃんぼを造って運搬したもので、「吉野家」の屋号をもらっていた店である。西郷さんも笠松や野頭に猟に来ては、ここによってじゃんぼを食べて帰られたとのことである。」

「親王を奉ずる南朝方と、島津氏の北朝方とは、波平城、笹貫、紫原、牛掛で戦い、最後は谷山軍は島津軍に敗れ、親王は肥後に向かい、そのご福岡の矢部で戦死した。親王は御所ケ原に六年間滞在した。「ジャンボ」の由来もここから始まる。谷山神社は懐良親王を祭ってある。この神社の右側に谷山隆信を祭る摂社があるが、昭和四年の建立である。…」

また、谷山史談第二号【昭和63(1988)年 谷山史談会発行 木原三郎著】によると

「五、谷山の狩場

 隆盛は谷山に狩りに来ての帰途、上松家の「じゃんぼ屋」によって、じゃんぼを沢山食べて武の屋敷に帰られたという。三国名勝図会の谷山の物産の項に、「五文餅、邑治下市坊の名品なり」とあるが、これがじゃんぼのことであろう。以前このじゃんぼ屋の祖母生存中、作り方を教えてもらったが、原料は味噌と黒砂糖でこれを鍋に入れ、とろ火で時間をかけてねり上げ、焼いた小餅にかけ、食べやすい様に二本棒をさしたという。現在は大量生産のため、タレの中にかたくりを入れてあるが、もとは入れなかったとのこと。藩政時代吉野の馬追いの時、藩庁から沢山じゃんぼを注文され馬につんで運んだので、「吉野屋」の屋号をもらった。西郷さんは目が大きく眉が濃く、堂々たる体格でいつも犬を連れてじゃんぼを沢山食べて、「うまい、うまい」と連発されたという。じゃんぼの由来は、南北朝期、征西将軍懐良親王が谷山の御所原に滞在中、郡司谷山隆信が献上したことから起こったと伝えられている。」

さらに鹿児島史談【平成5(1993)年 鹿児島史談会編 木原三郎著】には、

ある日、谷山隆信は宮の心を慰めようとして、小餅を作り、これに味噌と黒糖の煮つめたものをかけ、食べやすいように小さい竹の棒を二本さして差し上げた。宮は美味しそうに食べられて、その名を下問された。隆信は答えに迷い、二本棒が差してあることから「両棒」(じゃんぼ)と申し上げた。以来、「両棒」が有名となり、谷山が両棒のはじまりとなったと伝えられている。今でも慈眼寺公園、磯別邸でも売られているが、両棒は谷山が発生の地であるようだ。」としている。

このように「じゃんぼ餅」の源流に南北朝期に、南朝側であった谷山氏に加勢するために、谷山を訪れた懐良親王に提供したものがじゃんぼ餅であるとの説であるが、これには数々の矛盾が生じる。なぜなら、南北朝期と現在の間となる江戸期の記録には、そのような説は一切登場しないこと、また「じゃんぼ餠」もしくは「ぢゃんぼ餠」との名称ではなく、五文餠との記載しかないこと、谷山市誌編纂のための史料集や懐良親王に関する戦前の記録などにもそのような逸話は一切登場しない点である。そのため昭和42年に刊行された谷山市誌にも懐良親王説の記載はない。ただ、木原三郎氏もなにかしらの史料を基として記述されたと考えられるが、木原氏が故人であることから、根拠となる史料に辿り着くことができないでいる。また、谷山関係の資料などには「ぢゃんぼ」ではなく「じゃんぼ」として表記されている点にも注目したい。前述の明治24年冬に平田翠屏氏によって整理された記述には「ぢゃんぼ」とあるが、谷山では「じゃんぼ」とある。これは谷山地区ならではのこだわりといえよう。

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