平田屋に代々伝わる資料や文献をもとに、両棒餅の誕生からこれまでの歴史について、東川隆太郎先生に「ぢゃんぼ餅の歴史ものがたり」と題して紐解いていただきました。

ぢゃんぼ餅の歴史ものがたり

聞き手・文 / 東川隆太郎
写真 / 大庭学


目次

① 始まりは谷山の名物「五文餅」
② 五文餠がぢゃんぼ餅に名を変える明治期
③ 磯でも売られるようになった「五文餅」と平田屋
④ 谷山における「ぢゃんぼ餅」こと「じゃんぼ餠」
⑤ 戦前の書籍等に登場する「ぢゃんぼ餠」について
⑥ 唐湊にもあった両棒餅と平田屋の意外な関係
⑦ 両棒餅の年表


始まりは谷山の名物「五文餅」

 
江戸期または、それ以前の史料に「ぢゃんぼ餠」の記載は現段階では確認できていない。しかし、現在の「ぢゃんぼ餠」に近似する菓子として「五文餠」がある。この菓子の初見は、鹿児島風流(ぶり)【天保9(1838)年発行か 】であり、天保6(1835)年に江戸の講釈師である伊東凌舎が贔屓にされていた藩主の島津斉興の帰国に随行した際の鹿児島城下を中心とした薩摩藩の遊覧記である。ここに「五文餅(ごんめもち)杉の葉にのせてうる、すべて壹文をいちめと云、故にゴンメ餅なり。杉山兵子と云。二本さす故なり。ぱいごま、上も高し。」と記載があり、絵も添えてある。その絵は詳細なものではないが、丸型の餠が二本の串で貫かれている様子が描かれており、まさに現在の形状に近いと考える。また、品名は五文で販売されていることに由来するとしており、呼び方は「ゴモン」ではなく、「ゴンメ」である。売られている場所に関して詳細な記載はないが、周辺の記事が谷山郷のことであることから、谷山で売られていたと推定される。

次に「五文餠」が登場する史料は、薩摩藩領である薩摩国・大隅国・日向国の地誌「三國名勝図会」【天保14(1843)年頃成立】である。このなかでは薩摩国の谷山郷の項に「薩摩國 谿山郡 物産 飲食類  鹽 △五文餅  邑治下市坊の名品なり」とある。また他の地域には「五文餠」の記載はいっさい見当たらない。谷山郷の市中において五文餠が売られていたことが理解でき、「ぢゃんぼ餠」の前身と思われる「五文餠」は谷山の名物であることが確認できる。ただ、繰り返しになるが当時の名称は「ぢゃんぼ餠」ではなく「五文餠」ことゴンメもちと呼ばれていたようである。

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