戦前の書籍等に登場する「ぢゃんぼ餠」について

 
戦前に刊行された書籍等にも多々に「ぢゃんぼ餠」は登場するが、そこからは時代や著者によって様々に認識されていたことが理解できる。

まずは、鹿児島市を中心とした地域の案内本でもある「鹿児島自慢」【大正4(1915)年 東 禾鳥著】の記述。

「ヂャンボ。軽羹に次ぐべき鹿児島銘菓と言ったら、先ず指をヂャンボに屈せねばなるまい、一寸径ほどの焙り餅に、砂糖味噌をまんべんなく塗りつけたものだが二本の竹串を縦に刺し立てた所に、名前の由来があるわけだ、蓋し二本は薩摩箸戦(さつまなんこ)の術語(テクニック)で行くと「ヂャン」と成るから、「二本棒」は「ヂャンボ―」と成らんければならぬ寸法だが、「ボー」の縦棒を去って、短(みぢ)かく「ボ」と置いたのは、その竹串なるものが、太した長いものでないからでもあらう「両刀餅」と書くのは近来の事である「出来たてのホヤ〱を魚鱗ならべたところ、まづ山あらしの何かと言ふべき圖であるが、食べて見ると扨旨もんのだ、口元はかりに氣がねする婦人などが、ガブリとやれぬ悲しさに、形容ならぬ本物の味噌を、口のまわりに塗り附けた所などは、主にも見せたき御愛嬌であるが、濫觴地は谷山で、磯は鹿児島での本場である。従前は杖を曳いて此君子を訪づれる劉玄徳が、日々毎日踵(くびき)を接したものであつたが、甘當趣味のハイカラ化した結果が、近来田之浦沿道に松風落寞の恨を見るのは、漢の社稷の為に計つて、大に嘆かはしいことである。」

まず注目すべきは、大正4年頃には、鹿児島銘菓としてかるかんの次くらいの認識があったという点である。また、この頃まではしょうゆたれではなく味噌砂糖が塗られたものであったこと。さらに両串の由来に「なんこ」説が登場している点も興味深い。そして発祥地が谷山であることや磯は「ぢゃんぼ餠」販売の最盛地であることも記述されている。

大正11年に発行された「鹿児島案内記」(竪山春村氏)にも二本の串に味噌砂糖をつけたもので、本場は磯と唐湊とある。鹿児島案内は当時の鹿児島市に関する案内本であることから谷山が記載されていないが、本場の地として唐湊が浮上した初見の本と認識している。この唐湊に関しては現在の平田屋と関係してくるので後述したい。

「三州」【昭和9年7月號 東京居住者の鹿児島懐𦾔録(四)37P 三州社編/濱島信助

東京中町在】には、それから数年、東京在住者が鹿児島市の地図を手にいれて「両棒串」でなくて「両棒餅」ではという随筆を寄せているが、両棒串という時代もあったので、名前のゆらぎがわかるととともに、ゴンメ餅の特徴や由来などが詳しく書いてあり興味深い。

「三〇、「ヂャンボ」に就いて

先日鹿児島から縣及市の地圖を取り寄せました。縣地圖は大阪駸々堂發行のものでありまして、其裏面の名所案内欄に名物も記してありました。之に就て一二記します。

 磯の名物に両棒串と記してありました。勿論「ヂャンボ」と読むのでせう。之れは武士の大小両刀を腰に差した形だと云ふので、此名称があるのですが、漢字を宛てたら両串餅の方がよいではないかと思ひます。

 鹿児島でニのことをヂャンと云ふことがありますから、二本棒のことを「ヂャンボ」と云ふのでせう。支那語の両個(リャンコ)から来たのかとも思ひます。

 私共の子供の時分は、此餅一個の價二厘でした。それから谷山名物として此地圖に「五枚餅」と記してありました。之れは矢張り「ヂャンボ」と同一物で「ゴンメモチ」と云ふのです。個數が五個あるからではありません。一個の價格か五厘するのですこれは寛永通寶を五文出して一個が買へるか「ゴンメ餅」と云ふたのでせう。此方は前者より特別大きいから其値段が高いのです。

 寛永通寶を使ふ時代には、其一個を「イツチャ」と云つたことがあつたさうです。谷山邊に通行税として一厘取つて私設橋を通過せしめた處があつたさうです。之を「イツチャ橋」と云つたさうです。二厘以上は「ニンメ」「サンメ」「ゴンメ」と云ふたのです。其れで餅一個を「ゴンメ餅」と云ふたのです。即ち餅が五枚あるのでなく、五文即五厘出して買へるから此名があるのです。」

ここでは五文餠の「五文」に注目した説明が詳しいのも興味深い。

他にもこの頃の観光パンフレットの記載として「鹿児島案内」史と景の國鹿児島案内【昭和10(1035)年)、鹿児島観光協會発行 吉田初三郎/小林松太郎編】、並びに「鹿児島案内 皇紀二千六百年に輝く「史と景の國」鹿児島案内」【昭和11(1936)年、鹿児島市観光課発行】ほぼ同じ文章

「磯濱

磯街道を北行すると右側の海岸に奇松がある。「琉球人松」と呼び𦾔藩時代琉球船入港の目標と傳へられてゐる。この街道一帯の風光は山紫水明、眞に自然の絶景である。右に櫻岳の雄姿を賞でつゝ進めば両側に茶屋數軒がある。こゝで薩摩名物の両棒餅(ジャンボ)を賞味するのも亦旅の一興であらう。更に北行すれば左側に 明治天皇駐蹕趾碑、照國公製艦記念碑、紡績所趾碑がある。」

とあり、磯地区の茶屋で売られている両棒餠が鹿児島名物として定着していることが分かる。

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