磯でも売られるようになった「五文餅」と平田屋

 
明治の中頃になると、磯で売られていたことがはっきりわかる記述が出てくる。

明治初期から鹿児島郡役所に勤務していた児玉宗之丞が残した日記である「児玉宗之丞日記下」の「明治25年5月29日」の記述。

「仝廿九日快晴 日曜也 昨日迠ニテ もと 宗吉卒業試験相済 磯ノ天神参詣企有之 子供皆召列 九時ヨリ差越 茶屋へ立寄 五文餅喰方有之 勇吉ニモ綱引企致候由ニテ茶屋へ参り 五文餅共 呉候而 寛ゝ罷在 四時前ニ罷帰候事」

(訳:29日快晴 日曜。昨日までで茂登と宗吉の卒業試験は済み、磯の天神へ参詣の計画がある。子ども皆を連れて9時に行く。茶屋へ寄って五文餅を食べた。勇吉も地引網の計画があり、茶屋へ行き、五文餅をやった。ゆっくりして4時前に帰る。)

このように、明治25年には磯地区の茶屋において五文餠が売られていたことは確認できる。しかしまだ名称は「ぢゃんぼ餅」ではなかった可能性が浮上する。ただ、井上良吉氏が著した「磯の名所𦾔蹟」【昭和6(1931)年 】のなかに次にようにある。

名物両棒餅(りゃんぼもち)

「餅ヲ焼ク店三軒アリ桐原、平田、中川トス両棒餅ハ元ト谷山町ノ名物ナリシガ磯島津邸御庭人足桐原辰之助(明治四十五年五月十七日歿七十五歳)同人妻シナ(大正五年五月丗一日六十八歳ニテ没ス)ノ夫婦ガ天神脇ノ自宅二於テ明治十二年頃ヨリ製造販売ヲ創メ後チ平田、中川モ開店シ遂ニ磯ノ名物トハナレリ餅ニ竹ノ小串二本ヲ差シタルモノニシテ「りやんほふ」又ハ「りやんほぐし」トモ称せり即チ封建時代薩摩武士ノ大小両刀指(りゃんぼもち)シタルヲ両棒指(りゃんぼさし)シト唱へシヨリ起リタル称呼ナラム「りやん」ハ蓋シ両ノ唐音ニシテほハ棒ニテ餅ニ両ツノ串ヲ指シタルハ恰モ武士ノ両棒指ニ似タルガ故ニ斯クハ呼ビナセルナルベシ一名五ン目餅トモ云フ一個ノ値ヲ銭五文ナレバナリ又杉山兵児ノ名称アルハ杉ノ葉ノ上ニ載セテ店前キニ出シタルガ故ナリ兵児トハ武士壮年輩ノ称呼ニシテ其長キ両刀ヲ差シタル兵児ガ杉山林中ニ胡坐セル様ニ似タリトノ意味ナラン昔時谷山町ノモノハ其大サ今ノ四倍位ニシテ味モ又甜美ナリシ今桐原家ニ蔵スル明治二十四年ノ冬平田翠屏翁ガ桐原辰之助ノ需ニ應ジテ書キ與ヘタル家珍亭記ヲ讀ムニ最(い)ト面白ケレバ左ニ採録スルコトゝセリ」

これによると、磯地区において「ぢゃんぼ餠」が製造されるようになったのは、明治12年頃に磯島津邸(現在の仙巌園)の御庭人足をしていた桐原辰之助が磯天神脇で始め、その後に平田屋と中川屋も開店して磯の名物となったことが理解できる。前述の明治17年に磯邸の改修工事の際に職工が食した五文餠は、桐原屋、平田屋、中川屋が製造していたものが提供されても矛盾がないといえる。

また、現在よく「ぢゃんぼ餅」に関して語られている串の二本差しが武士の脇差、「両棒」から「ぢゃんぼ」であること、さらには江戸期の史料にもある五文餠や谷山起源のことが記載されている。

さらに注目すべきは、明治24年の冬に平田屋の平田翠屏氏が桐原屋の桐原辰之助氏から依頼されて、記述した「家珍亭記並能因法師故事の圖」という「ぢゃんぼ餅」の由来をまとめた著述が添付されている点にある。平田翠屏風とは現在の平田屋の三代遡る当主である平田彦五郎のことである。また、かつての磯地区は昭和9年までは吉野村であったが、その吉野村の歴史を研究していた平田猛氏は、平田彦五郎氏の子にあたる。また彼らは、磯天神こと菅原神社の神主もしており、神社の記念碑にも名前が刻まれている。

さて「家珍亭記並能因法師故事の圖」を少々長いが紹介したい。

夫れ新玉の歳の首(はじめ)に、餅をつくりて鏡餅と、となふるとハ、畏くも、日の神、天の磐戸に、籠らせおはしける時、その御象を、鏡に鑄たてまつりて、祈り申しける、佳例に、とくへつ、祝ひけるとゝなむ、又餅を加知牟と、いふとは、昔し、能因法師、あづまに、下りける時、久しく旱し、民の欺き、朝からざれバ、能因、三島明神に、詣でゝ

天の川なはしろみつにせきくたせ、あまくたります神ならばかみ、と歌よみて、奉りければ、忽ち大雨ふりて、三日三夜やまざるほどに、きのふまで、枯れたりし、稲葉おしなへて、緑の色にうへりければ、家々に餅をつきて、能因が庵に、持つ行て、雨乞の謝礼を、申しけるよりして、餅の一名を、歌賃と申すと、いへるとは、かの伊予守實綱が、任に赴けるに、能因を、ともなひ、下り、雨乞の歌よませ、たりといふとを、世俗増補して、斯くや、話し傳へけむ、扨猶も餅のめてたさ、荒増をいはんに、人の生れて、立初には、餅を踏ミ、又歳の初の歯固めハ齢かたむ為めとかや、十五日の小豆の粥の餅三月三日の草の餅、五月五日の柏餅、六月十六日の嘉祥の餅、十月の猪の子餅、一二の月朔にハちやん餅、或ハ諸所の名物にハ、阿部川の五文取り、日坂のねらび餅、草津のうバが餅、淀川のあんころハ、くらハんカと、喚ハり、長崎ハ善哉の本なり、鹿児島の名物ハ、谷山の五ン目餅、抑々之を五ン目餅、という事ハ、其價格にして、鳥目(ぜに)五文なれバなり、又田楽餅とも、よべるハ、外面に、味噌と黒砂糖とをぬりたるハ、豆腐の田楽に、等しく、串にさしたる容の、田楽法師に、似たればなり、又の名、ヂャンボグシという事ハ、ヂャンボ、ハ蓋し、両の字乃、唐音にして、ほハ棒にて、両棒串、指したるとのとならむ、士(さむらい)の大小二本、指したるを、ぢゃんぼ指し、とハ唱へたる、又之を杉山兵児と、唱ふるハ、店前、杉の葉の上に、のせ出したるが故なり、兵児とハ、武士壮年輩の称にして、其長き両刀指したる様に、似たれば、斯くハ呼なせるなるべし、茲に桐辰氏あり、磯天神祠の南に、家せり、五ン目餅を、製し賣るを以て、業とせり、能く米の精良なるを、江らび舂て、其餅や、堅きに過ぎず、軟かにも過ぎず、其糝(あれ)も、甘過ぎず、鹽辛からで、何も加減が宜しければ、其おいしさ、愛ん人なし。扨も、この磯たるや、山水のけしき、面白く、春の花、夏の風、秋の月、冬の雪、遊びがてらに来る客も、少からで、まして、日向大隅の通い路なるに、又折節にハ、御船詣や、心岳寺参り、往来の人も、夥し、されバ、こゝを過る人とに、必ず餅を買ハざるハなし。其買ふや、常におのが、舌をなめらかし、腹をふくらかす、のミならで、孫子の歸遺(みやげ)、近所隣りの茶じほけ、なんとして、買もて行く、人も多けれバ、自然に其名顕れて、今ハ磯の五ン目餅とて、世に出てはやされて、其譽夥れ獨り谷山のミに留まらず、後に家を移しくる人も、皆この餅を、製し賣るとこそ成りにけれ、氏其家の額にせんとて、畫を余に求む、余筆拙けれど、又否むとも能はされバ、能因が歌賃の故事、繪き與ふるって、其家の號を、家珍亭とよ名付けゝる、字書ニ曰く珍ハ寶也と、されバ餅ハ家の珍なり、氏よ氏よ、終を善すると、始の如くせバ、益々餅の能く世にもてはやされて、其富を致すや、何そ疑ハん氏よ氏よ、勉よや、家珍の業に

 辛卯乃冬此圖を書き又此記を誌す」

この著述の内容を要約する。まずは五文餠は、味噌と黒砂糖を田楽のように表面に塗っているので田楽餠とも呼ばれているこということ、磯地区では桐原氏が磯天神横で始め、磯街道を通行する人々の腹を満たしていたことなどが記されている。また、この段階で「ぢゃんぼ」の文字が登場することから、明治24年の冬には「ぢゃんぼ」の名称が使われ始めていたことになる。ただ、前述の児玉宗之丞氏の日記にあるように同時期に五文餠とも記載もあるということは、まだ「ぢゃんぼ餅」の名称は定着しておらず、従来の五文餠と両方の名称で認識されていたともいえそうだ。

 このようにして、平田屋の営業は、桐原屋に続いて中川屋と同時期の明治12年頃に始まっている。営業の地は、現在の平田屋の主人などの証言や店舗に伝わる記録などから現在の場所と同じ思われる。また現在の平田屋前の街道沿いで鹿児島市街地側に向かう道路が海岸に湾曲して突出した場所があるが、そこは通称「平田どんの鼻」と呼ばれていることもこのことを裏付ける。

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